くまげの文化財
たくさん何気なく通っている道にも、いろんな歴史や、思いがけない宝物があります。熊毛に住んでいることが誇らしくなる文化財をご紹介します。
「諫鼓踊」(勝間)(山口県指定無形民俗文化財)
諫鼓踊(かんこおどり)は、勝間地区に伝わる伝統芸能で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の途中、勝間という地名が吉瑞として、熊毛神社に戦勝を祈願し、凱旋時、お礼に太刀、神馬とともに「諌鼓踊」と名づけた踊りを奉納したと伝えられています。
また、一説に、陶晴賢が大内義隆を討ったときの状況を模したものだという説もあります。

諫鼓踊は、7年ごとに熊毛神社の秋の例祭に奉納される伝統芸能で、山口県無形民俗文化財に指定されている由緒ある踊りです。勝間諫鼓踊保存会(16名)が中心となり、伝統を守っています。平成24年には文部科学大臣表彰を受賞しました。春の熊毛神社御式年祭(10年毎)にも奉納いたします。
昔は、勝間上、中、下地区の長男が踊り子として踊れる条件でしたが、昨今の少子高齢化により、地区からの子供たちの人数が減り、現在は、他地区にもご協力をお願いしています。また、長男以外のお子さんや、女子にも協力してもらっている現状です。
踊りは、全体を指揮する僧、旗持、大聖、小聖、拍子木が各1名、ホラ貝2名(ここまではすべて大人)、音頭鶏(ドウトリ)太鼓(中学生2名)、踊り子〈鉦(かね)を兼ねる〉(主に小学生12名)の21名で構成されています。
保存会としてただ単に踊りを奉納するだけでなく、地域の世代を越えた交流になれればと思っています。その先に伝統文化が育っていくと思っています。それには、踊り子達のご家族のご協力、地域の方々のご協力が必要です。なお、保存会では公式インスタグラムで情報発信をしています。
《伝え》《繋ぐ》《続ける》をテーマに奉納は七年毎や十年毎になりますが、日々の感謝を大切に、愛される勝間の「諫鼓踊」となるよう、頑張っています。次回の奉納は2026年の4月12日です。
山口県指定無形民俗文化財
勝間諌鼓踊保存会会長 阪本直樹
インスタグラム:@katumakankoodori1968
「花笠踊」(山口県指定無形民俗文化財)
みんな知っちょってかいね?鶴の里の「花笠踊」(はながさおどり)。「花笠踊」ちゅうたら東北4大祭りの山形県の踊りじゃろぅ・・・と思われる方が多いですよね。実は、全国各地に「花笠踊」は形を変えて存在しています。
私たちが守り伝えようとしている「花笠踊」は、鶴の里八代の魚切(うおきり)地区に450年以上前から伝わる踊りで、言い伝えによると、陶晴賢の謀反により最後を遂げた西中国の戦国大名で文化人だった大内義隆の追善供養のために地区の住民が捧げたのが始まりだと言われています。




「花笠踊」は、7年に一度、八代の氏神様である二所神社の八朔風鎮祭の日(8月26日)に奉納されています。450年前と変わらぬ踊りや衣装に音頭と・・・。幽玄な雰囲気を醸し出す夏の日の一夜とお祭りです。
また、古来から踊り子は未婚の男女に限られていますので、八代の若者にとっても一生に1度の経験となり、青春の思い出となっています。しかし、八代もご他聞に漏れず『過疎』という大波に襲われていまして、踊り子の確保が大変となっています。
八代魚切地区関係者 佐伯信治
周南市安田の糸あやつり人形芝居(山口県指定無形民俗文化財)
浄瑠璃に合わせて糸で人形を操って行う人形芝居です。江戸時代、三丘領主宍戸氏によって定められた安田市の催し物として行われていました。市に集まった商人の1人、阿波の藍染商人・松尾某が伝えたといわれています。
戦前から戦中にかけて中断していましたが、1946年(昭和21年)、三丘村の有志が「三丘三和会」を組織して保存普及に努め、今に引き継がれています。

各人形の大きさは、約50cm。顔と両耳、両手先につけた5本の糸を、上から操り、情感たっぷりに演技をします。三丘小学校でも、平成7年(1995年)に「三丘小人形浄瑠璃の会」が誕生し、三丘三和会指導のもと、こどもたちが郷土の文化に真剣に取り組んでいます。
「徳修館」(山口県指定有形文化財ー建造物)
「徳修館」(とくしゅうかん)は、1809年(文化6年)、三丘領主第8代宍戸就年(なりとし)が郷土の教育振興のために創立しました。1846年(弘化3年)、第10代元礼(もとよし)が萩の明倫館を模し、聖廟(孔子が祭ってある所)として新築したのが現在の建物で、江戸時代の郷校(ごうこう)の実状を残した県内唯一の遺構です。
木造の平屋建で、桁行10.98m、梁間6.97m。屋根は入母屋で桟瓦葺き。玄関を入ると、3つの広間、中央広間の奥に拝堂、その奥に聖廟があります。近隣各地からやってきた多くの若者がここで学び、郷土の発展に貢献しました。生徒数は多い時で約500名でした。

周南市指定文化財
新畑神舞(しんばたかんまい)
新畑地区に伝わる神楽舞で、熊毛神社と人丸神社の祭日に社前で奉納されています。白衣に馬乗袴(ばじょうこ)をはき、五色のたすきをかけて鉢巻をしめ、白たびをはいて舞います。面をつけたり女装したりする舞もあります。はやしは、笛や太鼓、鉦(かね)を用います。



呼坂本陣跡
山陽道呼坂宿で、参勤交代の大名などが宿泊や休憩をした場所です。天明年間(1870年代)から河内家が本陣を引き受けました。


寺嶋忠三郎誕生の地
寺嶋忠三郎は高水村原出身。松下村塾で学び、尊王攘夷運動に尽くした維新の志士です。1863年(文久3年)の禁門の変で、久坂玄瑞とともに自刃して果てました。


吉田松陰と寺嶋忠三郎訣別の地
1859年(安政6年)、萩の野山獄から江戸に護送される途中の吉田松陰が、弟子の寺嶋忠三郎と無言の別れを告げた場所です。その時の思いを詠んだ2人の句が彫られています。


かりそめの 今日の別れは幸なりき ものをも言はば 思いましなん 松陰
よそに見て 別れゆくだに 悲しさを 言にも出でば 思いみだれん 忠三郎
毛利元就(もとなり)の歯廟(しびょう)
三丘領主、毛利元政(元就の七男)が建てた宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。右は、元政が常に肌身離さなかった父の遺歯を納めたもの。左は生母、乃美の方(元就の側室)の墓です。

毛利元政(もとまさ)の墓所
三丘領主、毛利元政の墓所です。元政の長男が建立しました。左の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(仏塔の一種)が元政の墓で、右は元政の長男元俱(もととも)の妻の母、宍戸元続前妻(織田信長の娘といわれている)の墓です。

安田宍戸記念碑
毛利氏一門の筆頭で三丘11代最後の領主、宍戸親基(ちかもと)の碑です。宍戸親基は、四国艦隊下関砲撃事件では事態の収拾にあたり、第2次幕長戦争では、芸州口の指揮官として幕府軍を破る功績を上げました。晩年は徳修館の経営に力を注ぎました。碑は、宍戸家家臣らが建立したものです。

木造聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)坐像
安国寺の境内にある高寺観音堂に祀られた聖観音像です。近年は10年ごとに開帳されています(次回の開帳は、2027年〈令和9年〉秋)。安国寺はおよそ650年前に足利尊氏が全国に設けた寺院の一つで、周防三十三観音霊場の第10番札所に定められています。

木造大日如来(だいにちにょらい)坐像等
熊毛神社のそば、本地堂に鎮座しています。かつて熊毛神社のそばにあった神光院の仏像。明治初期の神仏分離令によって寺は解体されましたが、本尊である大日如来像他諸仏像、涅槃画(ねはんが)、大般若経が残されています。

清尾板碑(せいのおいたび)
花崗岩の自然石に阿弥陀三尊をあらわす梵字(ぼんじ)が刻まれた14世紀の碑です。南北朝対立時代、周防の国の大内弘世は当初南朝方だったことから、石碑には「正平10年(1355年)」と南朝の年号が刻まれています。

高水村塾跡及び楽学の碑
1898年(明治31年)、高水村有志によって建てられた高水村塾の跡。塾は、のちに高水中学校から高水高校となり、1954年(昭和29年)岩国市へ移転しました。「楽学(らくがく)の碑」は、高水村民の教育に対する熱心さをたたえたものです。


大蔵経(だいぞうきょう)
「大蔵経」は仏教の聖典を集成したものです。八代の円照寺には、明治の島田蕃根によって出版された大日本校訂大蔵経(1916部、8534巻の経本)が保管されています。勉強家だった第12世、愍順(みんじゅん)住職が、村民の浄財を用いて購入しました。

堀貫(ほりぬき)溜池周辺の植物
八代にある溜池です。環境省の絶滅危惧Ⅱ類に指定されているミズニラモドキなど、貴重な植物が多数生息しています。

高水神社夫婦岩
清尾山頂上に鎮座する巨大な2つの岩(高水神社奥の院)です。熊野権現の分霊をこの地に勧請した際は毎夜霊光が輝き、領内に火災が生じた時には、この巨岩が鳴動したという言い伝えがあります。

弁慶穴古墳
昭和に入ってから、熊毛北高校運動場拡張工事や山陽自動車道工事などをきっかけに、主に弥生時代の古代遺跡群〈岡山(おかのやま)遺跡・天王遺跡・追迫(おいさこ)遺跡・石光遺跡など〉が見つかりました。古墳時代後期(約1400年前)の弁慶穴古墳は、徳修館北側に移築されており、三丘ゆめ広場に上がる途中で気軽に見学できます。

その他の遺跡
●城山(じょうやま)※三丘城址
三丘地区の貞昌寺の後ろにそびえる海抜319メートルの城山は、大内氏の時代まで、この地方の見張り番をするお城(御番城)があった山です。戦国時代から織田・豊臣氏の時代にかけては、大内・尼子・毛利の勢力争いの舞台となっていましたが、江戸時代、徳川家康が大名の居城以外のすべての城の破却を命じたため、三丘の城も取り除かれました。今でも本丸や石垣などの跡が残っています。
●淡海道
かつて三丘の広末地区は、川が増水すると高森・差川方面から小周防・室積方面への通行ができなくなっていました。そのため、1831年(天保2年)、貞昌寺の淡海和尚が、地元の人の協力を得て、1418メートルの新道を完成させました。これが「淡海道」です。現在は、利用する人がいなくなりましたが、入口近くに「淡海和尚碑」が建っています。
参考文献 『周南市文化財マップ』(周南市)/『ふるさと探訪熊毛町』(熊毛町)/『三丘見て歩き』(熊毛町三丘地区生涯学習推進協議会・三丘徳修館)/『三丘小学校創立150年記念誌』(三丘小学校創立150周年記念誌編集委員会)