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三丘今昔物語

1 はじめに

私たちが慣れ親しんでいる「三丘」という漢字はなかなかの難読文字です。

初めてこの漢字に接して、「ミツオ」と正しく読める人はほとんどいないでしょう。「ミオカ」「ミツオカ」「サンオカ」か、はたまた漢文読みして「サンキュウ」。これくらいは想定できますが「ミツオ」は想定できかねます。

2 「三丘」という名称の起源と変遷

そもそも「三丘」は「三尾」と表記されたこともあるように、三つの山の「尾」が寄り集まったところの土地の名前でした。今の筏場や広末辺りの極く狭い場所の名前で、ここには「亀ヶ丘」「雉子ヶ丘」「長丘」という三つの丘があり、その「尾根」で囲まれたところを往古から三丘(三尾)と呼んでいたのです。

亀ヶ丘
雉子ヶ丘
長丘

その狭い地域の呼び名「三丘」が今のように、安田、小松原を指して使われるようになったのは、次のような変遷をたどっています。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、中国8州120万石から、防長2州36万石に封入されました。その時三丘(三尾)に居を構えたのが毛利元就の7男毛利元政です。その元政を土地の人は「三丘様」と親しみを込めて呼んでいました。その後の給地換えで、宍戸家が毛利元政に代わってこのあたりを治めるようになりますが、やはり「三丘様」と呼び、徐々に三丘という名称が広い土地を指すようになっていきました。

明治22年(1889)の町村合併で、「安田村」「小松原村」が合併して「三丘村」が誕生し、行政的に確立します。昭和31年再び町村合併が実施され、熊毛町の誕生と共に三丘村という名称はなくなりますが、それ以後も三丘という名称だけが残って現在に至っています。

3 二級河川「島田川」

三丘地区の中央部を流れる島田川は、ここに住む私たちの生活と深い関わりを持っています。

山口大学教育学部、小野忠凞(ただてる)先生を中心にして「島田川流域遺跡調査」(昭和25年〜昭和28年)が行われ、岡山、天王、広末、石光、兼清、川尻、東善寺、和田、石光、中村など多くの遺跡から、数多くの土器が出土しました。

これらは弥生時代中期のもので、三丘は古くから人々が住みつき、生活の場になっていたことを物語っています。この遺跡は「高地性集落」と呼ばれる小高い丘の上にあり、防御を目的に作られた集落ですが、島田川の氾濫と皆無だとは言い切れないように思います。

現在、考古学会では高地性集落という用語が用いられていますが、この用語はこの発掘調査が起源だと言われていることは特筆すべきことです。

島田川

島田川は「米川(こめかわ)」とも呼ばれ、川船を使って米や炭などを光まで運んだ時代があります。現在の水量では考えられないことですが、当時は流れの豊かな川だったことが伺えます。島田川は運河の役割を果たしていました。

島田川はその他「三丘裾川(みおすそがわ)」「大川(おおかわ)」という呼び名もありました。

更に島田川の豊かな水は、水稲の豊作を約束してくれました。また子供たちの水遊びや魚取りの場でもありました。川漁も盛んで、鮎やゴリなど独特の漁の方法もありましたが、現在ではほとんどその姿を見ることができないことは誠に残念です。

島田川は豊かさの川と同時に心のふるさとの川でもあります。

その一方、島田川の歴史は災害の歴史と言っても過言ではありません。洪水による被害をあげれば枚挙にいとまがありません。川土手を崩壊し、橋を流し、多くの人命を奪い、家屋や田畑をも飲み込みました。

そのため島田川は霞堤(かすみてい)と呼ばれる独特な水害対策が用いられています。

島田川の土手は、郷と呼ばれる水田の下流の部分が切れて開口しています。これが霞堤と呼ばれる洪水対策のひとつで、その歴史は古く戦国時代武田信玄が考案したものだそうです。

霞堤は川沿いにあえて土手を作らず、増水した折にはここから低い郷に水は逆流させ、一時的に水を貯えて下流の増水を抑えます。中郷、下郷の下流で堤防が切れているのはそのためです。

最近異常気象により各地で水害が発生していますが、この方式を用いたあらたな水害対策も考案されています。

現在のように重機のない時代、復旧に費やした先人の労苦は筆舌につくしがたく、そのおかげで、現在の私たちの生活が成り立っていることを忘れてはなりません。

島田川は、人々を苦しめ続けた「あばれ川」の一面も有しています。

4 特色ある文化財

私たちの住む三丘は、古くから開けた土地ですから、多くの特色ある文化財が存在しています。その中で山口県から指定を受けている二つの文化財について紹介をすると共に、三丘史跡マップを使ってその他の史跡を紹介します。

(1)徳修館(山口県有形文化財 建造物)

徳修館は、文化6年(1809)に創建された郷学です。今私たちが「徳修館」と呼んでいる建物は、当時の徳修館の中心的な建物で、孔子の他、4人の弟子、顔回(がんかい)、子思(しし)、曾子(そうし)、孟子(もうし)を祀る聖廟と儀式などを行った講堂を兼ね備えた建物です。当時はこの建物を中心にして、10棟の建物がありました。

江戸時代長州藩には19を数える郷学や郷校があり、その数は三百諸侯と呼ばれる大名の中でも一番でした。また、私塾や寺子屋もトップクラスの数を誇っていました。

そもそも長州藩を治めていた毛利家は、公家の大江家を祖先に持っています。この大江家は、天神様でおなじみの菅原家と並び称される学問に秀でた家柄であったことに深く関わっています。

さて、この徳修館では毎年10月の第1日曜日に釈菜(せきざい)という孔子の業績をあがめ奉る儀式が行われます。この儀式には三丘小学校5年生の論語朗誦隊が論語を朗誦します。子供たちの清らかな声が廟内に響き渡り、参列者に大きな感動を与えています。このように子供たちの論語を取り入れた釈菜を行っているのは、全国でもこの徳修館だけでしょう。三丘小学校では、平成元年から素読を取り入れた活動が行われており、児童は俳句短歌詩歌論語などに親しんでいましたので、その絶好の発表機会になっています。

徳修館前の孔子像

なお、毎年新入生には、徳修館顕彰保存会から「あいうえお論語」の小冊子が贈呈され、素読のテキストとして活用されています。

釈菜は全国的に見ても十指に満たない貴重な儀式です。徳修館釈菜は、徳修館創建200年の年に138年ぶりに覚醒した全国で一番新しい釈菜です。

その徳修館の前には孔子像が建っています。この石像は中国山東省人民政府から送られたもので、全国でも数少ないものです。学問の始祖と呼ばれ、かつては学問の神様と呼ばれた孔子像があることは大変誇らしいことです。

(2)周南市安田の糸あやつり人形

(山口県無形民俗文化財)

その起源は、江戸時代天保年間と言いますから、今からおよそ200年前にさかのぼります。文化文政時代から貨幣経済が浸透し、日本各地に「市」ができ庶民の芸能、人情本、読本、浄瑠璃、歌舞伎等の町民文化が栄えた時代でした。

当時安田では毎月21日に「市」が開かれ諸国から商人が集まり賑やかでした。

その中の一人、阿波の藍染め商人松尾某が人形を手作りして、浄瑠璃を伝えたことが発祥と言い伝えられています。

明治に入り「市」はすたれましたが、人形浄瑠璃は継承されていました。大正末期から昭和初期には一時途絶えた時期もありましたが、地域の方々の熱い思いで復活伝承されたことは素晴らしいことです。

三丘三和会の公演

戦後は「三丘三和会」がいち早く結成され、糸あやつり人形芝居に取り組み、次第に旺盛な活動を続けています。

平成2年(1990)、三丘小学校に「あやつり人形クラブ」を結成。5年後には「三丘小人形浄瑠璃の会」に発展して、三丘徳修館まつりで人形浄瑠璃の初演にこぎ着けています。以後人形操作、語りに三味線が新たに加わり一層充実した演奏に発展し、演奏活動も徐々に増えてきました。

平成18年(2006)からは、浄瑠璃の本場南あわじ市や徳島市に研修旅行が実施され、その交流により演奏技量も飛躍的に伸びてきました。現在では、児童数の減少などにより交流が行われていないのは誠に残念です。しかし、「周南市安田の糸あやつり人形芝居保存会」(三丘三和会)の献身的な協力援助指導が実って、今や三丘小学校の特色ある教育活動の中核となっています。

願わくば、この教育活動で培った経験が、子供たちの心の奥底に残り火となり、将来再びこの糸あやつり人形に巡り会えた時、その残り火を種火として伝承活動が活性化する日が来れば、何と素晴らしいことでしょうか。

これは保存会にとっても三丘にとっても、何ものにも代えがたい喜びです。

5 三丘領主 毛利筆頭家老宍戸家 

宍戸家の始祖は、清和天皇第六孫王源経基と伝えられています。それ以後八代までは源氏姓を名乗っています。宍戸姓を名乗るようになったのは、第九代の家政が常陸国(茨城県笠間市)の宍戸の庄を治めていた頃に始まります。当時、国人(現在の村長のようなもの)はその治めている土地の名前を姓にすることが多かったようです。現在でも茨城県笠間市には宍戸駅、宍戸小学校、名門コースで知られる宍戸ヒルズカントリークラブなどの名前の施設があります。笠間市立宍戸小学校では、総合的な学習で宍戸家の歴史学習も組まれています。

その宍戸家の家紋は「州浜(すはま)」と呼びますが、これは「六」の字を図案化したものです。初めは宍戸の「宍」の六から来たものかと思いましたが、第六孫王の「六」からできた家紋と考える方が正しいようです。この紋は徳修館の鬼瓦や宍戸親基の石碑にも用いられていますので目にされた方も多いことと思います。

州浜は海浜にできた砂の文様を図案化したものですが、仏教的には現世と来世の結界を表しています。京都御所の池の淵に見ることができますし、仏像の中でも最も人気のあると言われる奈良興福寺の阿修羅像もこの州浜の文様の上に立っています。

宍戸家家紋「スハマ」

様々な形をしたスハマのデザインがあります。図に示したスハマ紋は、その裏側に「東京高島屋」の名前がありますから、恐らく宍戸家が紋付きを注文した折、東京高島屋の紋書屋によって書かれたスハマ紋と思われます。

6 常陸国から安芸吉田甲立(現広島県 安芸高田市)の庄へ

  〜毛利との出会い〜

宍戸は元弘3年(1333)足利高氏(尊氏)等と共に京都六波羅(平氏)を攻略し、その功績によって翌年安芸国甲立を賜りそこに五龍城を築きます。

しかし、その五龍城から4㎞あまりの離れた所に、国人、毛利の郡山城がありました。両家は雌雄を決すべきつばぜり合いを始めます。しかし、一進一退の戦いは決着がつかず、両軍にらみ合いの時代が長く続きます。毛利元就の父毛利興元の時代です。興元は、元就に城主を譲るとき「宍戸五龍城には手を出すな」と伝えるほどでした。

ところが、郡山城主となった元就は、宍戸と相対峙しているのは得策でないことを悟り、その和解を模索します。当時の五龍城主宍戸元源は高齢でした。また嫡男元家が21歳で他界し、その嫡男隆家(源元の孫)が元服したばかりで、早く身を固めさせたい事情がありました。

そこに目を付けた元就は、天文2年(1533)宍戸との和解提携を持ち出し、翌年正月ごくわずかの家来を連れて五龍城に赴き、年賀の祝いを述べます。宍戸元源も鄭重に饗応しました。元就は酒はあまりたしなまなかったと伝えられますが(諸説あり)、宴会は盛り上がり、その席で元就は一人娘を宍戸隆家に嫁することを提言します。宍戸家としても願ったり叶ったりでこの話はとんとん拍子に運びます。これで長く続いた宍戸と毛利の関係は和解し、両家は永久に固く結ばれる事になります。毛利元就の策士としての面目躍如というところです。 

宍戸隆家は、非常に緘黙な武将でしたが、戦にはたぐいまれな才能を持っていたという話が残っています。以後元就は次々と戦に勝利し、小さな国人から中国地方を平定する大大名になります。それには毛利と毛利両川と呼ばれる吉川、小早川の三本の矢の力は絶大な力があったのは無論ですが、宍戸も四本目の矢として力を発揮し、元就の中国平定に大きな力を発揮します。

しかし、元就は宍戸に嫁に出した一人娘の長女(五竜姫と呼ばれる)が、大変気になったらしく、三人の息子(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)にあてた三子教訓状(三矢の教え)では、長女の宍戸五竜姫を三人の兄弟と同じように扱って欲しいと書き残しています。

7 安芸国甲立から防府牟礼へ 

西の毛利輝元、東の徳川家康を大将とする関ヶ原の戦い慶長5年(1600)は、天下分け目の戦いと言われます。全国の大名は、恐らく何ヶ月も続く合戦になると予想していましたが、予想に反してわずか半日で決着が付きます。  

戦力、陣容からみても毛利優勢は堅いと考えられましたが、残念ながら統率がとれておらず、戦闘士気も低く、小早川秀秋の寝返りもあってあっけなく西軍は敗れてしまいます。

開戦前には西軍が敗れても、毛利の領地は安堵という内応の話が徳川家康と吉川広家の間でまとまっていましたが、蓋を開けると大きな違いでした。

家康は毛利を東北地方の3万石ばかりの小さな大名に左遷し、防長2州は吉川の領地にする計画を考えていました。しかし、これには吉川広家が難色を示した結果、防長2州36万石は毛利の領地となります。しかし、中国8州120万石に比べれば領土安堵とはかけ離れた話です。

毛利としては約束を反故にされ、怒り心頭に発する結果です。それも今まで住み慣れた広島ならいざ知らず、防長2州という江戸から最も遠い本州の西の端に追いやられます。それだけではありません。毛利は、防府市桑山や山口市に築城を申し出ますが、防府は広い平野、交通の便の良さで断られ、山口は大内氏繁栄の地として断られます。仕方なしに山陰の交通の便が悪く、湿地の多い田舎の漁師町萩に落ち着きます。「萩指月山麓であれば、海からいつでも毛利はつぶせる」家康はこう考えたに違いありません。

その上、津和野藩には親藩の亀井氏を配置して毛利の見張り役を置きます。まるで毛利は防長2州という座敷牢に入れられたようなものです。秀吉時代、徳川も毛利も五大老として活躍していましたから、家康は毛利の力を十分知り尽くして警戒していたことは分かります。

「再び毛利が力を吹き返すことは絶対に避けたい」との家康の強い意志が読み取れます。家康らしい緻密で計算しつくされた策だったことが伺えます。しかし、250年後毛利は再び力を蓄えて幕府を倒します。家康の杞憂が現実になったことは、歴史のあやとは言え、実に興味のあることです。それにつけても、家康という人間の超人的な洞察力には感服します。「あっぱれ家康」を感じると同時に、「事実は小説より奇なり」という諺が頭をよぎります。

「萩の武士は西枕で寝る」と言われます。即ちこれは徳川に足を向けることを意味しています。この徳川に対する怨念が250年の時空を隔て討幕運動へつながったことは面白いことです。

現在日本は諸外国との間に、歴史問題で大変難しい立場にありますが、その年数はわずか80年たらずです。長州会津の不仲は150年。徳川毛利の問題は260年。これらを考えますと、まだまだこの問題は序の口かも知れません。歴史問題は本当に難しいものです。

さて、中国8州120万石から防長2州36万石に封入となった毛利は、その家臣をすべて長州に連れてくることは不可能なことはおわかりのことと思います。そこで主立った家臣、優秀な家臣を長州に連れて来ます。その中には勿論宍戸家も毛利と共に長州入りします。

毛利一門という言葉があります。その毛利一門とは、宍戸家、大野毛利家、右田毛利家、吉敷毛利家、厚狭毛利家、阿川毛利家を言いますが、これに永代家老の福原家、益田家を加えて一門八家と呼ぶこともあります。その筆頭にある宍戸家は、吉田時代からの長い関係、中国平定の活躍などにより培われた絆によって、その地位が決められたのでしょう。ちなみに大野、右田、吉敷、厚狭、阿川の各毛利は、元就の子、孫、甥などに当たり血縁関係にありますが、宍戸家だけが姻戚関係にあるのは面白いことです。

さて、宍戸広匡は甲立から防府の牟礼に移り住みます。勿論宍戸家に関わりのある寺社、四柱八壁と呼ばれる家老を始め、多くの家臣が安芸甲立から宍戸に連れ添って移り住みます。一方三丘には毛利元就の七男元政が領主となって広末に居を構えます。

しかし、この元政が三丘にいた時代はわずか20年ばかりでした。

8 給地替え 防府牟礼から三丘へ

寛永2年(1625)給地替えが実施され、毛利元政と宍戸広匡はその領有地が入れ替わります。即ち毛利元政が防府へ移り右田毛利初代となり、宍戸広匡が三丘の領主となります。甲立にありました甲立八幡宮、剣大明神、司箭社、冠念寺、貞昌寺等の寺社も宍戸と共に防府から三丘へと移ります。

これから明治維新の改革までの二百数十年間、三丘は宍戸家の給領地として長い歩みを続けます。

260年間続いた江戸時代は、身分制度や重い税など一般庶民は苦しめられた経緯があります。しかし、貨幣経済の発達や町民文化の繁盛は特筆すべきことです。

また、5代将軍綱吉が昌平坂学問所を開設し儒学を奨励します。これにならって全国の各大名が、藩校や郷学郷校を建て儒学を普及します。又寺子屋もたくさんできました。幕末、三丘には郷学徳修館があり、規模は小さいながら安田側に4つ、小松原側に4つの寺子屋もあり、教育水準が飛躍的に伸びた時代でした。

儒学の徳目である仁(やさしさ、思いやり)、義(人として当然行うべき行為)、礼(礼儀)、智(智恵、判断力)、信(信用、嘘を言わない)が日本人の道徳的精神のバックボーンとして形成された時代です。

現在では生まれてきた子供に、仁義礼智信などの漢字を使う親は少なくなりましたが、戦前までは数多く見られたのも今述べたような時代背景があったからです。

アジアで唯一植民地にならなかった日本。その原因は、この教育水準の高さと高い道徳的価値観を身につけていたからに違いありません。

また、江戸時代は大きな戦がなかったことを考えれば、天下泰平の時代と言ってもいいのではないでしょうか。

宍戸親基公頌碑

幕末宍戸家は、第2次幕長戦争(四境戦争)では芸州口尾瀬川の戦いに参戦し、多くの戦果を残しています。その功績により、明治33年宍戸乙彦は男爵を賜り、大正4年には宍戸親基にが贈られました。それを記念して建てられたのが、市民センター裏にある宍戸親基公頌碑(市文化財指定)です。

話は前後しますが、元禄4年(1691)御蔵本を小松原から安田に移し、楼門(御田屋門)や倉庫3棟を新築します。現在の旧宍戸家のある場所です。ちなみに今の旧宍戸家の家屋は明治20年築となっています。

老朽化した楼門はつい最近まで残っていました。熊毛町の財政で建て替えることができないか検討されたこともありました。また、平成3、4年に郷学徳修館の半解体工事の折りには、楼門を徳修館前に移築する案が持ち上がっていました。しかし、これも実現することなく、楼門は老朽化のために解体されたことは返す返すも残念なことです。

さて、三丘小学校が150周年を迎えます。この起点は、明治6年(1873)熊毛第一小学の開校です。(諸説あり)

熊毛第一小学のネーミングが何を意味するものなのか、定かではありません。しかし、県下には「○○第一小学」と名付けられた学校もあります。

例えば今の防府市立華浦小学校は佐波第一小学校でした。この学校の前身は「越氏塾(えっしじゅく)」という楫取素彦がその経営に携わったことがある塾で、萩明倫館と覇を競うほどの名門塾でした。その他山口第一小学や豊浦第一番小学などが見られます。

これらの例でも分かるように、○○第一小は、前身に歴史と伝統のある格式の高い教育機関を受け継いでいます。

戦前までは、三丘小学校の校長は郡内トップクラスの人材が派遣されたことを考えると、三丘小学校は熊毛郡内で格の高い学校であったことは確かのようです。

郷学徳修館は明治維新の諸改革により、明治3年(1870)運営が困難になって閉館します。この徳修館の人材や施設を活用して、三丘小学校の前身である熊毛郡第一小学が誕生したことは容易に想像できます。そう考えれば、郷学徳修館は三丘小学校の原点と言えなくはありません。そこには当然ながら宍戸家の物心両面の深い援助があったことは疑いのない事実です。

9 おわりに

三丘は「歴史の郷(さと) いで湯の郷 清流の郷」です。

その「歴史」「いで湯」「清流」に深い関わりを持ちながら、三丘小学校が開校以来150年の節目の年を迎えています。

論語の中の言葉に「温故知新」「故きを温(たず)ねて新しきを知る」があります。この冊子「三丘小学校150年記念誌」が、三丘小学校の新たな歴史を綴る「故きを温ねる」ための一助になれば望外の喜びです。

(2023年発行 「学而時習之ー三丘小学校創立150周年誌」より)

著者 杉村洋治

昭和15年(1940) 防府市生まれ。結婚を機に三丘の住民となる。平成13年(2001)教職を退職後、熊毛町社会教育指導員や三丘徳修館館長(現三丘市民センター)を歴任する。現在徳修館顕彰保存会会長。

【参考文献】    

宍戸記/徳修館記/三丘開邑360年誌/徳修館由来記/周防島田川流域の遺跡調査研究報告「島田川」/周南市安田の糸あやつり人形「70周年記念誌」